ある俳優と照明家のこと

先日シアターZOOである芝居を見たとき、ちょっと気になる若い役者がいて、特になにか芝居をするわけでもないんだけど、きっとそんなに演劇の経験はないのだろうけど、ちょっといい役者だな面白いなと思って見ていた。
そんなことを同じ芝居を見た人と話していたら、後日メールがあり。

「○○さんの息子だそうです。」

それは、僕が芝居を始めた20年前くらいに札幌で芝居に関わっていた人間ならおそらく誰でも知っている照明家の名前だった。

僕も前の劇団で何度かプランをお願いしたことがあって、すごくすごく芝居が好きで品のある美しい照明を作る人だった。
その後仕事をご一緒する機会がなく10数年が過ぎた。

いつかまた芝居の現場でご一緒できる日が来るような予感がする。
照明家の父と、か、俳優の息子と、か。

俳優の声

以前、とある俳優さんが、北海道のロケで二日間オフ日があったから札幌に遊びに来てたことがあって、ちょうど春風亭一之輔さんの独演会を道新ホールで演っていた日だったから二人で聞きに言った、ということがあった。

一之輔のすごさをいまさら私なんかが語るのも僭越だからそれはしませんが、終わって飯食いながら、いったいこの俳優は、ああいう噺家のなにを、どこを見ているんだろうと聞いてみた。

「声だね」

「声ですか」

「聴いてるよね、あいつは。自分の声を。で、見てるんだよ、客を」

マクラのところでその日の自分の声、会場での響き、客、それを見て聴いて判断してるんだ、で演ってるんだ、という。なるほどなと思うし、なるほどなとは思うけどじゃあやりましょうって出来るもんではない、とも思う。でもこのことはやっぱりとても大事だと思う。「自分の声を聴く」

あと、その人は、こうも言う。

「俳優は声だ」

 

何年前だろう。千年王國が何周年だかのコメントを求められたとき、橋口幸絵(現在は櫻井)んとこにはいい声の男俳優ばっかり集まる、ということを書いた。柴田にしても赤沼にしても昔の京極にしてもそうだった。そのうえで私が橋口の芝居の、時に何に違和感を覚えていたかといえば、彼らがその声に自覚的であるかどうか、ではないか。

この前芝居やった時、あれは劇場での稽古中で私は客席でなんとなく見てたんだけど、聞かれたんです、ある人に。「私の声聞こえてますか?」

聞こえていたんだけど、その時「ハイ、聞こえてますよ」ではだめだなと、ちょっと余計なことかもとは思いながら付け足して答えた。「自分で喋ってて聞こえてるなら、きっと客にも聞こえます」。

基本の基本になってしまい申し訳ないが、叫んでも届かないセリフもあるし、囁いてもよく聞こえるセリフもある。

ちゃんと聞きたいなと思う。喋りたいなと思う。

 

Mrkill  matic

Mrkill matic

【結論】きっと、これが最高の燃料用ボトル。今はインテリアとして活躍中。

ドイツのMARKILL (マルキル)製のmarkill matic。

MARKILLはアルミ製の水筒なんかを作ってた老舗のメーカーなんですが、残念ながら今は無いそうです。ちょっと古い山屋さんならきっと全員知ってるハズ。フランスのグランテトラかマルキルかどっちか、ってかんじでした。ロゴがかっこよくてね。

で、これは、そのマルキルの燃料用ボトルです。

燃料用ボトルだとSIGGボトルが一般的だったんだけど、あれはスクリューのふたが外れそうで怖くて、なんか使ってなかった。山に灯油持ってくのはエバニューのポリタンだったし(非推奨)。

自転車旅でレギュラーガスのストーブ使うようになってから、絶対漏れない、こけても壊れない、スタンドで給油してもらえるボトルが必要になり、北12条の秀岳荘で買いました。スタンドではポリタンにはもちろん給油してくれません、念のため。

ご覧のようにベコベコですが、まあ丈夫です。ボトルってより砲弾ってかんじ。軽いけどね。

 

 

そういえばなんですが、チャリ旅でスタンドでガソリン買うの、最初は恥ずかしかったな。セルフスタンドなかったしね。

容量は0.9L。なんで2個あるかっていうと、2ストのオフ車(CRM50)に乗るようになってから、あれってタンクが5リットルくらいしかないもんで、2ストだから遠出でも50ccのくせに20km/Lくらいしか走らない。そんなわけで、遠出&林道入るときに2本分ガソリン積んでました。二本で30km走ればまあなんとか人里まで。北海道でも。

そしてこのボトルの最大の特徴が、この2重キャップ。

 

 

 

 

こうして、外蓋のへこみを内蓋にはめて、回して外すんですわ。だから、荷物の中で蓋がゆるむってことがまずない。

それと、内蓋がバネで開閉するプッシュ式のノズルになってて、

ここを指で押して押して傾けると、小さな穴から中身がチューって出てきます。

漏斗持ち歩くのも使うのも面倒だから、ストーブに直接注いでました。もちろん非推奨です。

 

ほんとに丈夫で軽くて漏れなくて優れた燃料ボトルだと思うのですが、もう作ってないんだね。残念だな。

最近は出番なくて、たまーに雨の日のたき火の一発着火用に灯油入れて隠し持ってくくらいだから、普段はインテリアになってます。オレンジでかわいいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

【わしの失敗談】
たき火やってて、火のツキが悪いからガソリンをちょいちょい追加してたんだけど、調子に乗って火の上から、プッシュボタン押してタラーってかけました。タラーって垂れるガソリンを炎が見事に逆流して手元と蓋のあたりに点火。これは絶対やってはダメでした。

【結論その2】
ガソリンは、別容器(切った空き缶とか)に入れてその上に木を組み、長い棒などでガソリンい点火。あっというまに火柱があがり湿った木でも雨の中でも着火します。ガソリンの後から追加はダメ!絶対!

ロッキーカップ

ロッキーカップ

【結論】一日の行動が終わっってテントから外を眺めながらこういうのでお茶飲んだり酒のんだりして一服する、そういうことのために山に入るし、飽きることはない。

最近はあんまり使わないのかな。シェラカップってあるじゃないか。そう、あれです。
高校生のころにはもちろんあって、山岳部ではそれを使ってるやつも多かったんだけど、あの薄いどんぶりみたいな形がきらいで。なんか、飲むときに口のわきからこぼれそうじゃないか、テントの中でさ。

そんなとき、会津若松の「アルペンハウス」で買ったのがこれ、ロッキーカップです。
はじめに買ったのが大きい方で、これで450mlくらい入ります。もちろん火にかけても大丈夫だから、自転車の旅中はこれで豆缶とかシチュー缶温めたりコーヒ―沸かしたりしたもんだ。
飲み口のフチが熱伝導率が低い金属でできてるから、熱い飲み物を入れても熱くなりにくいんです(これはシェラカップも同じ)。 とはいえ火にかければやっぱり熱くなるから、飲む用にもう一個、小さいのも買いました。こちらは200ml少々。

いくらぐらいだったのかな。大きい方が2500円くらい、小さい方が2000円くらいだったんじゃなかろうか。
高校生にはちと高い買い物だったが、なんかこれは長く付き合うモノになりそうな気がしたんだな、きっと。そのとおり、長い付き合いになりました。買ったのが15歳ころだから、もう30年ですな。たき火にも平気でかけてたからあんまり大事に使ってたとは言えないんだけど、呆れるくらい丈夫だぜ。

今、売ってないらしいですね、これ。
あと山道具屋で似た形の探してもチタンばっかりだしね。チタンの鍋とかカップって火にかけるとなんか嫌な気分になるじゃないか(ならない?)。無理して買っといてよかったな。もっと買っとけばよかったな。一ダースくらい。どうやら中古でも高く売れるらしいじゃないか。売らないけど。

そんなわけでいまだに愛用のロッキーカップ。
普段はデスク上のごちゃごちゃしたものを入れるのに使ってます。
あと、家ですごく小さな鍋を必要とする時があるじゃないか。ウナギのたれをちょっと追加して作ったり、、削り節を煎ってオカカ作ったり、とかね。そういうときに450mlの方はよく活躍します。まあ、炒めもんすれば焦げますが。焦げても全然大丈夫。

さすがに重いので、山に2個セットで持ってくことはなくなりました。小さい方だけですな、山には。

テントたてて日が落ちる前にこれでコーヒーとか酒を飲んでぼーっとするとき、その心情を説明するのは難しいんだか、そういうことのために自分は山に入るのではないかと思っている。いつになっても飽きることは、ない。

 

俳優の足

白状するが私は舞台上の俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。こういうことを言うと、ひどい人、嫌い、もっと私をみて、とか言われて面倒だから、ウンそれは例えだよ比喩だよ、つまり足を見ることを通して俳優という人そのものを見ているんだよワタシは、とか一応言っておく。で、そいつが帰っていなくなったらまた言うが、私は俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。

ということに気が付いたのは数年前、ある芝居を札幌で見ていたときだった。見ながら考え事をしていたのだからきっとあんまり面白い芝居ではなかったのだろう。で、次に別の芝居を見る時に確認した。「ワシは俳優の足しか見ていない」。

日本の現代演劇の教科書に俳優の足についての記述があるのかは知らないが、スタニフラフスキーのには似たようなことが書いてあった。それは確か座り方、「俳優が舞台上でイスに座って何もしないでいること」、みたいなことだだった。はず。

昔読んだ新劇の教科書みたいのには、いろんな歩き方のことが確か書いてあった。
でもそれは、いろいろな歩き方、つまり、形態模写にほとんど近いものだった。はず。
私の考える「俳優の足」とは、明らかに違う。アプローチがまったく違う。

で、少し考えれば、日本には歩くこと、俳優の歩み、にほとんど特化したといっていい舞台芸術があることを思い出す。それはもちろん、能であり、狂言だ。畳の上で足袋を履いて行われる舞踊、舞、その他芸能もこれにあたるだろう。
で、想像する。能舞台で、お座敷で、檜舞台で、いったいなにを根拠に人は一歩を踏み出すのだろう?次の一歩を踏むのだろう?

俳優の足を見ながら、以前あるひとが舞台稽古中に俳優に言った言葉を思い出す。
「あんたほんとに歩けるの?」

私は舞台上の俳優のことなんて足しか見ていない。足がすべてを律する。