俳優の足

白状するが私は舞台上の俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。こういうことを言うと、ひどい人、嫌い、もっと私をみて、とか言われて面倒だから、ウンそれは例えだよ比喩だよ、つまり足を見ることを通して俳優という人そのものを見ているんだよワタシは、とか一応言っておく。で、そいつが帰っていなくなったらまた言うが、私は俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。

ということに気が付いたのは数年前、ある芝居を札幌で見ていたときだった。見ながら考え事をしていたのだからきっとあんまり面白い芝居ではなかったのだろう。で、次に別の芝居を見る時に確認した。「ワシは俳優の足しか見ていない」。

日本の現代演劇の教科書に俳優の足についての記述があるのかは知らないが、スタニフラフスキーのには似たようなことが書いてあった。それは確か座り方、「俳優が舞台上でイスに座って何もしないでいること」、みたいなことだだった。はず。

昔読んだ新劇の教科書みたいのには、いろんな歩き方のことが確か書いてあった。
でもそれは、いろいろな歩き方、つまり、形態模写にほとんど近いものだった。はず。
私の考える「俳優の足」とは、明らかに違う。アプローチがまったく違う。

で、少し考えれば、日本には歩くこと、俳優の歩み、にほとんど特化したといっていい舞台芸術があることを思い出す。それはもちろん、能であり、狂言だ。畳の上で足袋を履いて行われる舞踊、舞、その他芸能もこれにあたるだろう。
で、想像する。能舞台で、お座敷で、檜舞台で、いったいなにを根拠に人は一歩を踏み出すのだろう?次の一歩を踏むのだろう?

俳優の足を見ながら、以前あるひとが舞台稽古中に俳優に言った言葉を思い出す。
「あんたほんとに歩けるの?」

私は舞台上の俳優のことなんて足しか見ていない。足がすべてを律する。

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