「優しい乱暴」論

亀井健・作演出「優しい乱暴」。
ふざけているのである。極めてふざけているのである。

俳優は思う。そして希望する。ちゃんとしゃべりたいものだと。
俳優は本の言葉をしゃべる。舞台で歩く。そのように本に書いてあるから。
その本は、誠実にしゃべり、歩くことを要求している。だからそうする。
しかし、その本はふざけているのだ。

亀井健の、表現に対する姿勢である。
舞台上で俳優と呼ばれる人々がマジメにふるまうという、極めて不自然な表現形態。
そのことを悲しいくらいに自覚したうえでの覚悟である。

言葉を紡ぐ。物語が構成される。俳優が演じる。作品として完成される。それを観客と呼ばれる人々が見る。
それら一連が「演劇」と言われる行為であるならば、そこに、演劇として完成してなお、不自然で、奇形の、異形のものとしての存在を自覚している。そこでなされた表現は、作者亀井健の、きわめて個人的な生への問いかけとなる。その日の夜の公演で出現したものは消費され霧散し、見た人は美しさを感じたり、愛したり、嫌悪したり、絶望したり、夢を見たりした。かもしれない。一連の行為と結果がこの社会の中に置かれる。

もう笑うしかないのである。
演劇というグロテスクな表現行為を。そのシステムを。その中で演じる俳優を。観客を。
笑いながら、極めて真剣に、誠実に、信じて、命を懸けてふざけているのである。

以上、私の誤解に満ちた「優しい乱暴」論、の序論。

俳優の声

以前、とある俳優さんが、北海道のロケで二日間オフ日があったから札幌に遊びに来てたことがあって、ちょうど春風亭一之輔さんの独演会を道新ホールで演っていた日だったから二人で聞きに言った、ということがあった。

一之輔のすごさをいまさら私なんかが語るのも僭越だからそれはしませんが、終わって飯食いながら、いったいこの俳優は、ああいう噺家のなにを、どこを見ているんだろうと聞いてみた。

「声だね」

「声ですか」

「聴いてるよね、あいつは。自分の声を。で、見てるんだよ、客を」

マクラのところでその日の自分の声、会場での響き、客、それを見て聴いて判断してるんだ、で演ってるんだ、という。なるほどなと思うし、なるほどなとは思うけどじゃあやりましょうって出来るもんではない、とも思う。でもこのことはやっぱりとても大事だと思う。「自分の声を聴く」

あと、その人は、こうも言う。

「俳優は声だ」

 

何年前だろう。千年王國が何周年だかのコメントを求められたとき、橋口幸絵(現在は櫻井)んとこにはいい声の男俳優ばっかり集まる、ということを書いた。柴田にしても赤沼にしても昔の京極にしてもそうだった。そのうえで私が橋口の芝居の、時に何に違和感を覚えていたかといえば、彼らがその声に自覚的であるかどうか、ではないか。

この前芝居やった時、あれは劇場での稽古中で私は客席でなんとなく見てたんだけど、聞かれたんです、ある人に。「私の声聞こえてますか?」

聞こえていたんだけど、その時「ハイ、聞こえてますよ」ではだめだなと、ちょっと余計なことかもとは思いながら付け足して答えた。「自分で喋ってて聞こえてるなら、きっと客にも聞こえます」。

基本の基本になってしまい申し訳ないが、叫んでも届かないセリフもあるし、囁いてもよく聞こえるセリフもある。

ちゃんと聞きたいなと思う。喋りたいなと思う。

 

俳優の足

白状するが私は舞台上の俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。こういうことを言うと、ひどい人、嫌い、もっと私をみて、とか言われて面倒だから、ウンそれは例えだよ比喩だよ、つまり足を見ることを通して俳優という人そのものを見ているんだよワタシは、とか一応言っておく。で、そいつが帰っていなくなったらまた言うが、私は俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。

ということに気が付いたのは数年前、ある芝居を札幌で見ていたときだった。見ながら考え事をしていたのだからきっとあんまり面白い芝居ではなかったのだろう。で、次に別の芝居を見る時に確認した。「ワシは俳優の足しか見ていない」。

日本の現代演劇の教科書に俳優の足についての記述があるのかは知らないが、スタニフラフスキーのには似たようなことが書いてあった。それは確か座り方、「俳優が舞台上でイスに座って何もしないでいること」、みたいなことだだった。はず。

昔読んだ新劇の教科書みたいのには、いろんな歩き方のことが確か書いてあった。
でもそれは、いろいろな歩き方、つまり、形態模写にほとんど近いものだった。はず。
私の考える「俳優の足」とは、明らかに違う。アプローチがまったく違う。

で、少し考えれば、日本には歩くこと、俳優の歩み、にほとんど特化したといっていい舞台芸術があることを思い出す。それはもちろん、能であり、狂言だ。畳の上で足袋を履いて行われる舞踊、舞、その他芸能もこれにあたるだろう。
で、想像する。能舞台で、お座敷で、檜舞台で、いったいなにを根拠に人は一歩を踏み出すのだろう?次の一歩を踏むのだろう?

俳優の足を見ながら、以前あるひとが舞台稽古中に俳優に言った言葉を思い出す。
「あんたほんとに歩けるの?」

私は舞台上の俳優のことなんて足しか見ていない。足がすべてを律する。