今年最後の観劇

今年最後の観劇になろうかと。
昼。
「ゴドーを待ちながら」歩さんと納谷さん。
あれ以上面白くはならないんじゃないだろうか、ゴドー。
あれ以上ダラダラ遊ばれると、きっと腹立つ。そのぎりぎりのところ。
2時間に収めてたのがすごくよい。でもまいてる感じがしない。

夜。春風亭一之輔。
でかい。圧倒的。すごすぎる。
謙虚な気持ちで一年を終えることができます。

が、今日は1月芝居の稽古初日だったりする。

「優しい乱暴」論

亀井健・作演出「優しい乱暴」。
ふざけているのである。極めてふざけているのである。

俳優は思う。そして希望する。ちゃんとしゃべりたいものだと。
俳優は本の言葉をしゃべる。舞台で歩く。そのように本に書いてあるから。
その本は、誠実にしゃべり、歩くことを要求している。だからそうする。
しかし、その本はふざけているのだ。

亀井健の、表現に対する姿勢である。
舞台上で俳優と呼ばれる人々がマジメにふるまうという、極めて不自然な表現形態。
そのことを悲しいくらいに自覚したうえでの覚悟である。

言葉を紡ぐ。物語が構成される。俳優が演じる。作品として完成される。それを観客と呼ばれる人々が見る。
それら一連が「演劇」と言われる行為であるならば、そこに、演劇として完成してなお、不自然で、奇形の、異形のものとしての存在を自覚している。そこでなされた表現は、作者亀井健の、きわめて個人的な生への問いかけとなる。その日の夜の公演で出現したものは消費され霧散し、見た人は美しさを感じたり、愛したり、嫌悪したり、絶望したり、夢を見たりした。かもしれない。一連の行為と結果がこの社会の中に置かれる。

もう笑うしかないのである。
演劇というグロテスクな表現行為を。そのシステムを。その中で演じる俳優を。観客を。
笑いながら、極めて真剣に、誠実に、信じて、命を懸けてふざけているのである。

以上、私の誤解に満ちた「優しい乱暴」論、の序論。

劇団コヨーテ「優しい乱暴」終了しました。

11月28日から12月2日まで出演していた劇団コヨーテ「優しい乱暴」、無事に全日程終了しました。
ご来場、ご観劇頂いた皆様、ありがとうございました。
楽しんでいただけたのでしたら幸いです。

共演した皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

取り組むべき素晴らしい本と機会を与えて下さった亀井健さんとナガムツさん、ありがとう。
一緒にやれて幸せでした。またやりましょう。

私、それまで精進します。