「優しい乱暴」論

亀井健・作演出「優しい乱暴」。
ふざけているのである。極めてふざけているのである。

俳優は思う。そして希望する。ちゃんとしゃべりたいものだと。
俳優は本の言葉をしゃべる。舞台で歩く。そのように本に書いてあるから。
その本は、誠実にしゃべり、歩くことを要求している。だからそうする。
しかし、その本はふざけているのだ。

亀井健の、表現に対する姿勢である。
舞台上で俳優と呼ばれる人々がマジメにふるまうという、極めて不自然な表現形態。
そのことを悲しいくらいに自覚したうえでの覚悟である。

言葉を紡ぐ。物語が構成される。俳優が演じる。作品として完成される。それを観客と呼ばれる人々が見る。
それら一連が「演劇」と言われる行為であるならば、そこに、演劇として完成してなお、不自然で、奇形の、異形のものとしての存在を自覚している。そこでなされた表現は、作者亀井健の、きわめて個人的な生への問いかけとなる。その日の夜の公演で出現したものは消費され霧散し、見た人は美しさを感じたり、愛したり、嫌悪したり、絶望したり、夢を見たりした。かもしれない。一連の行為と結果がこの社会の中に置かれる。

もう笑うしかないのである。
演劇というグロテスクな表現行為を。そのシステムを。その中で演じる俳優を。観客を。
笑いながら、極めて真剣に、誠実に、信じて、命を懸けてふざけているのである。

以上、私の誤解に満ちた「優しい乱暴」論、の序論。