「優しい乱暴」論

亀井健・作演出「優しい乱暴」。
ふざけているのである。極めてふざけているのである。

俳優は思う。そして希望する。ちゃんとしゃべりたいものだと。
俳優は本の言葉をしゃべる。舞台で歩く。そのように本に書いてあるから。
その本は、誠実にしゃべり、歩くことを要求している。だからそうする。
しかし、その本はふざけているのだ。

亀井健の、表現に対する姿勢である。
舞台上で俳優と呼ばれる人々がマジメにふるまうという、極めて不自然な表現形態。
そのことを悲しいくらいに自覚したうえでの覚悟である。

言葉を紡ぐ。物語が構成される。俳優が演じる。作品として完成される。それを観客と呼ばれる人々が見る。
それら一連が「演劇」と言われる行為であるならば、そこに、演劇として完成してなお、不自然で、奇形の、異形のものとしての存在を自覚している。そこでなされた表現は、作者亀井健の、きわめて個人的な生への問いかけとなる。その日の夜の公演で出現したものは消費され霧散し、見た人は美しさを感じたり、愛したり、嫌悪したり、絶望したり、夢を見たりした。かもしれない。一連の行為と結果がこの社会の中に置かれる。

もう笑うしかないのである。
演劇というグロテスクな表現行為を。そのシステムを。その中で演じる俳優を。観客を。
笑いながら、極めて真剣に、誠実に、信じて、命を懸けてふざけているのである。

以上、私の誤解に満ちた「優しい乱暴」論、の序論。

劇団コヨーテ「優しい乱暴」終了しました。

11月28日から12月2日まで出演していた劇団コヨーテ「優しい乱暴」、無事に全日程終了しました。
ご来場、ご観劇頂いた皆様、ありがとうございました。
楽しんでいただけたのでしたら幸いです。

共演した皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

取り組むべき素晴らしい本と機会を与えて下さった亀井健さんとナガムツさん、ありがとう。
一緒にやれて幸せでした。またやりましょう。

私、それまで精進します。

 

閉じるように、断絶

飲まなきゃやってらんない、なんてことはないし、そういうときに飲むとだいたいもっとやってらんないことになるのだが、それでも昨日はお酒を少々いただく。で、またエラソーに喋る。

「もうね、あんたとやってて、あんたもわたしもいつでも、客席に座ってこっち見てる人、俗にいう観客と言われる人たち、その人たちに一応ちゃんと聞かせる届ける、んなことできるのはわかってますよ。だからさ、ここは勇気をもってだな、我々のそして個々の中に閉じよう、閉じていこう」「なるほどですねー」「あおまえ、閉じるったって聞こえなくちゃだめよ見世物なんだから、少なくとも観客と言われる人たちはそう思ってきてるらしいからな。客席に背を向けながらもちろん比喩だよ例えだよ客席に言葉を届けるのだ、どうだ矛盾してるだろう。舞台と客席との断絶を見せつけながら見世物としての俳優の業に苛まれるのだどうだやめたくなったろう」「なるぽろぴりんー」「かなちいかくるちいか、そんなちみのすがたをみてヒトは喜ぶのだぞもっとフコウになれもっともっと」「なますてこにゃにゃちわ」

そんないろいろを携えて今日も稽古に向かう

Blochで稽古

「優しい乱暴」。昨日は、公演会場のBlochで稽古した。
私にとっては、すごく久しぶりのBlochの舞台。

本番の舞台と客席含めた空間で稽古して。
さてそうすると、いろいろなことになるのだが。俳優ってやつは。

ここで勇気をもって、もう一度本に戻りたい。
本に戻らなければいけない。