赤レンガテラス

昼から、大通公園あたりの美術館が入ってるビルに行き一時間ほど談笑したのち、札幌駅前のカフェで三時間ほどお茶を飲み、札幌駅南口広場でイルミネーションを見ながら写真を撮り、赤レンガテラスでイルミネーションを見て写真を撮り、道庁赤レンガ庁舎前で写真を撮り帰ってきた。
こうして書くとまるで私はぶらぶら遊んでるみたいだが、なに。二件長めの打ち合わせをして、そのあとロケハンしてたのだ。
遊んでるみたいに仕事したいもんだ。

仕事始め

と書くと今日が仕事始めだったようだが、そんなことはないですとっくに働いてます。
あけましておめでとうございます。

今日は、年内のとある時期にとある町でとある作家さんの本で芝居を作るための打合せ。
とある町の実行委員会の方々と作家さんと。
打合せ後はとある作家さんと軽く飲んで、演出プランをお聞きしたり、とある町の人々はどのような性向を有するかなどについて意見交換をしたり、その他多くの時間を費やして実にくだらない話をしたりと、たいへんに面白いひと時を過ごさせていただいた。
ありがとうございます。
これから仕事ご一緒させていただけるのが、楽しみでしょうがないです。

ということを年末に思い立って始めたfacebookに書こうかと思ったんだが、現時点ではほとんど公表できない情報ばかりだから読んでも面白くもなんともないわな。写真も載せれないし。
やっぱりこうしてブログに書く方が、なんか性に合ってるようだ。

まあ、情報オープンになったらfacebookにばんばん載せればいいんだけどな。

あとよう。『facebook』ってのが、なんか長くて嫌なんだよ。打つのめんどくさくて。
カタカナでも『フェイスブック』。10回もキー打たなくちゃならないんだよ。
誰か略語考えてくさい。
『顔』とか
『ふぇ』とか

ある俳優と照明家のこと

先日シアターZOOである芝居を見たとき、ちょっと気になる若い役者がいて、特になにか芝居をするわけでもないんだけど、きっとそんなに演劇の経験はないのだろうけど、ちょっといい役者だな面白いなと思って見ていた。
そんなことを同じ芝居を見た人と話していたら、後日メールがあり。

「○○さんの息子だそうです。」

それは、僕が芝居を始めた20年前くらいに札幌で芝居に関わっていた人間ならおそらく誰でも知っている照明家の名前だった。

僕も前の劇団で何度かプランをお願いしたことがあって、すごくすごく芝居が好きで品のある美しい照明を作る人だった。
その後仕事をご一緒する機会がなく10数年が過ぎた。

いつかまた芝居の現場でご一緒できる日が来るような予感がする。
照明家の父と、か、俳優の息子と、か。

俳優の声

以前、とある俳優さんが、北海道のロケで二日間オフ日があったから札幌に遊びに来てたことがあって、ちょうど春風亭一之輔さんの独演会を道新ホールで演っていた日だったから二人で聞きに言った、ということがあった。

一之輔のすごさをいまさら私なんかが語るのも僭越だからそれはしませんが、終わって飯食いながら、いったいこの俳優は、ああいう噺家のなにを、どこを見ているんだろうと聞いてみた。

「声だね」

「声ですか」

「聴いてるよね、あいつは。自分の声を。で、見てるんだよ、客を」

マクラのところでその日の自分の声、会場での響き、客、それを見て聴いて判断してるんだ、で演ってるんだ、という。なるほどなと思うし、なるほどなとは思うけどじゃあやりましょうって出来るもんではない、とも思う。でもこのことはやっぱりとても大事だと思う。「自分の声を聴く」

あと、その人は、こうも言う。

「俳優は声だ」

 

何年前だろう。千年王國が何周年だかのコメントを求められたとき、橋口幸絵(現在は櫻井)んとこにはいい声の男俳優ばっかり集まる、ということを書いた。柴田にしても赤沼にしても昔の京極にしてもそうだった。そのうえで私が橋口の芝居の、時に何に違和感を覚えていたかといえば、彼らがその声に自覚的であるかどうか、ではないか。

この前芝居やった時、あれは劇場での稽古中で私は客席でなんとなく見てたんだけど、聞かれたんです、ある人に。「私の声聞こえてますか?」

聞こえていたんだけど、その時「ハイ、聞こえてますよ」ではだめだなと、ちょっと余計なことかもとは思いながら付け足して答えた。「自分で喋ってて聞こえてるなら、きっと客にも聞こえます」。

基本の基本になってしまい申し訳ないが、叫んでも届かないセリフもあるし、囁いてもよく聞こえるセリフもある。

ちゃんと聞きたいなと思う。喋りたいなと思う。

 

俳優の足

白状するが私は舞台上の俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。こういうことを言うと、ひどい人、嫌い、もっと私をみて、とか言われて面倒だから、ウンそれは例えだよ比喩だよ、つまり足を見ることを通して俳優という人そのものを見ているんだよワタシは、とか一応言っておく。で、そいつが帰っていなくなったらまた言うが、私は俳優のことなんてほとんど足しか見ていない。

ということに気が付いたのは数年前、ある芝居を札幌で見ていたときだった。見ながら考え事をしていたのだからきっとあんまり面白い芝居ではなかったのだろう。で、次に別の芝居を見る時に確認した。「ワシは俳優の足しか見ていない」。

日本の現代演劇の教科書に俳優の足についての記述があるのかは知らないが、スタニフラフスキーのには似たようなことが書いてあった。それは確か座り方、「俳優が舞台上でイスに座って何もしないでいること」、みたいなことだだった。はず。

昔読んだ新劇の教科書みたいのには、いろんな歩き方のことが確か書いてあった。
でもそれは、いろいろな歩き方、つまり、形態模写にほとんど近いものだった。はず。
私の考える「俳優の足」とは、明らかに違う。アプローチがまったく違う。

で、少し考えれば、日本には歩くこと、俳優の歩み、にほとんど特化したといっていい舞台芸術があることを思い出す。それはもちろん、能であり、狂言だ。畳の上で足袋を履いて行われる舞踊、舞、その他芸能もこれにあたるだろう。
で、想像する。能舞台で、お座敷で、檜舞台で、いったいなにを根拠に人は一歩を踏み出すのだろう?次の一歩を踏むのだろう?

俳優の足を見ながら、以前あるひとが舞台稽古中に俳優に言った言葉を思い出す。
「あんたほんとに歩けるの?」

私は舞台上の俳優のことなんて足しか見ていない。足がすべてを律する。