劇団コヨーテ 路上ヨリ愛ヲ込メテ

ハムプロの稽古しなくちゃで人の芝居見てる場合じゃないんだが、かとうしゅうや君が出てることもありコヨーテというとこの芝居を観劇。
で、結局、俳優のありかた、みたいなものしか見てないんだが。

終わってかとうくんとサクッと飲む。話してるうちに自分の考えも整理されるのでよろしい。

誠実でありたいと思う。できないことはできません、ということで。
もしかするとなんだが、「キャラクター」とか「人物像」とか「性格」とか、そういうものを俳優が表現できる、そう思ってる俳優が多いんじゃなかろうか。んなこたあできないよきみ。

正確にいうと、上にあげたようなものを表現しようとして「演技」するのはマチガイ、ってこと。
ホンには書いてある。喋るべきことが。俳優はそれを喋ればよい。その言葉を吐くときに「どんな人だから」なんて考えることがマチガイなんだ。「どんな状態か」は必要よ。
・・・。・・・いまさらこんな幼稚なことを書くのもものすごくはずかしいが、昨日かとうくんと飲んでて改めて思ったってことは、俺はまだそんな段階なんだな。まあ、それがわかっただけでよろしい。

で、なんだが。
昨日の亀井健の芝居(亀井さん本人の、って意味ね)、なんだが、
これは本人の(作家&演技者だから、表現者として、としておく)意図がどうあれ、開演して極早い段階で彼の演じる人物が観客のシンパシーなり共感なり反感なり、つまり観客として彼の生を追体験しようという観客たちの意思を獲得していた。
・・・なんかまわりくどいな。
他の登場人物は、彼を「キモイ」と形容する。が、観客は彼を「キモイ」とは思えない。
なんでだろう?カメイケンだから?それもある。
でも、と思う。
誠実だからだ。言葉と、それを発する意識に対して、彼が誠実だから。
彼がもし「キモイ」人物を演じようとしていたらどうだろう?
・・・「どうだろう?」じゃない。ダメなんだよ。

彼は「キモイ」人物の生を誠実に語った。結果、観る者は「キモイ」と描かれるべき人物に、それ以上の魅力なり期待なり、やがて悲しいカタルシスが訪れるのか、生への希求を叫ぶのか、そこまでを予感する。
そのとき、演技者と観客の間には「キモイ」などという、ステレオタイプなキャラクター設定など無意味になる。

さて、それで。最後、「キモ」かった彼はダイエットに成功し、戦いを挑み負け、そして生きることを叫ぶ・・・。
ここがカタルシスとして機能していなかったことから、逆算して考えたんだ、上記のことは。
早い段階で、彼はいずれ勝ち、負け、そして生きていくのだろう、もしかしたら死ぬだろう、いつかは死ぬだろう、そういうことを自分の中に予定していたんだ。話が見えちゃった、っていうんじゃないよ。彼が生きていくことを了解したんだ。

演劇として成功だったのかどうか、そんなことはどうでもいいんだ。
誠実に演じる人を見れて、それでいい。